春の訪れが遅い飛騨でも、先週あたり桜の盛りを迎えていました。
お花見にすら、自由に行くことができなかった今年の春。外出を自粛するよう要請が出される中、閑散とする公園の一角に数本の桜が咲いていました。せめて誰もいない時間ならば、と考えて、子供たちを連れて桜の下を歩いたんです。窓から見る遠くに咲く桜とも、テレビに映る桜ともやっぱり違う、本物の桜の花。春の風、繊細な花弁のふくらみ。春を全身で感じながら、近くにあった遊具で遊ぶこと、5分。本当に楽しそうな笑い声をあげる姿を見て、「ああ、今年の春を子供たちに味あわせてあげられてよかった!」そう思いました。
ちょうどその時、小学校低学年の姉妹を連れたご家族が公園に。その姉妹は、うちの子供たちが遊ぶ遊具に元気に近づいてきてくれたんです。でも、残念。今はいっしょに遊べない。「帰らなくちゃ」と私が言うより早く、6歳の娘の口からこんな言葉がその子たちに向かって飛び出しました、「一緒に遊ぼう!」。
今、反省しているのは、その時の自分の対応です。姉妹の答えを待つより先に、「今は一緒に遊べないんだ。ごめんね!バイバイ、コロナが収まったらまた一緒に遊んでね!」と言うや否や、子供たちの手を引いて自分の車までダッシュ。帰路につきました。帰りの車の中で、「どうして遊べないのか」といったことを丁寧に説明したつもりでした。
しかし、その日の夜、娘は夜中、怖い夢を見たと言って何度も起き、一晩中私の手を握り締めて眠りました。
新型コロナウィルスの影響で、いつもならできることができない。娘も分かっているはずのこと。ただ、それまでは「入学式以降、学校に行けていない」、「習い事もお休み」、「近所のお友達とも遊べない」といった変化は、娘にとって母親の口から前もって知らされていたことでした。しかも、それは落ち着いた口調で、「きっと5月になったころには学校にも行けるかもしれないよ」など、希望と共に伝えられていたことだったんです。それが、あの日は突然、変化が降りかかった。母親である私自身が動揺して、焦った姿を見せたのも、娘を怖がらせてしまったんだと思います。非日常、をはっきりと見せてしまった。
怖いと感じたり残念だと感じたりするような情報は、家族の誰かが、落ち着いた声で、子供になるべく不安を与えないような話し方で伝える方がいい。それがどんなに子供にとって大切なのかを再確認した出来事でした。